ポーズが決まって、拍手がわく。それが芝居の醍醐味です。


 高玉芝居の誕生は、高畠町の亀岡文殊で公演した歌舞伎役者が瑞龍院を参拝した折り、高玉の人々に芝居を教えたことがきっかけといわれている。寺子屋もなかった時代のこと、旅役者に文字を習って台本を写し、浄瑠璃を習い始めたのである。
 今でも代々の座長の許には、夥しい数の台本が残っているが、現存する一番古い台本は寛政年間のもので、序破急、今でいう音符が記された貴重な資料である。
 昔から高玉地区には、瑞龍院を頂点とする厳しい若衆規約があり、そんな中で高玉芝居も瑞龍院の庇護の下、この規律をずっと守りながら続いてきたのであるが、明治時代になって開明座という座名が生まれ、歌舞伎から浪曲を取り入れた節劇へと移行。
 平易でおもしろい芝居は大衆に好評を博した。そして、昭和元年には高玉芝居の伝承を目的とした高栄会が結成され、今に至っている。


金田栄寿氏
 現在、座長を務める金田栄寿さんは、昭和22年より約50年にわたって座長を務め、今でも「3度のメシより好き」という大の芝居好きだ。
 しかし、座長の仕事というのは思ったより忙しいもので、脚本作りから演技指導、舞踊の振り付けはもとより、芝居本番では先頭に立って一座をまとめなければならない。
 「芝居は出帳というんですけど、まず、粗筋(脚本)を書くんです。歌舞伎の時代は台本がありましたが、今ではすべてオリジナル。粗筋ができると、すぐに団員を徴集して配役を決定します。 そして配役ごとに演技を説明して1日練習し、2回目が本舞台です。1度説明してできなかったら1人前の役者じゃないの」。と金田さんは結構厳しい。
   それというのも高玉芝居は、年間約30本の公演をこなしているからで、明治以前より、お盆には高玉芝居を観ることが慣例になっている地区もあり、夏祭りから秋祭りまでのシーズン中は週末ごとにに舞台があるという忙しさ。 しかも、毎年、きまった場所に出演するため、同じ出し物を続けるわけにはいかず、常に新作を用意しなければならないというのが苦しいところである。
 一座の得意な演目は、『松竹梅3兄弟5月の仇討ち』。新しい舞台に出るなら得意な芝居で勝負できるのに、と団員はいう。「こういう集団は、仲良く一生懸命やることが大切なんです。仕事をきっちりやること。風紀を乱さず、世間の信用を裏切らないことが肝心。
だから楽屋では禁酒。小学生から私くらいの年齢までの団員が、心をひとつにしてやっていくには厳しい定めがないとダメ。高玉芝居は、そうして残ってきたんです。」
 団員の構成は男女半々た゜が、夫婦や家族ぐるみで参加している人もけっこう多いという。それは、「結婚したら夫婦で来なさい」。という金田さんの口癖にもよる。最近では追っかけもいるという人気の高玉芝居。「おひねりが来ると、気分がいいよ。」と金田さんは笑った。
座長 金田栄寿氏
座長、変身す


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